ブリマー・ブルーイング~スコット・ブリマー インタビュー その2/風雲! 来日編
奥様の佳子さんとお付き合いを始めた頃。チコでのスナップ

ベアード・ブルーイングから御殿場高原ビールへ

―日本での最初のキャリアが御殿場高原ビールになった経緯について教えてください。

SB うん、えーと、まずは結婚の話からだね。僕がチコ・ステイトに通っていた頃、僕はヨシコと会った。彼女は交換留学生として来ていたの。そこから、いったん彼女は帰国して、チコに戻ってきた。チコ・ステート・ユニバーシティの日本語の先生として働き始めたんだね。で、僕らは結婚して、チコに家を買って生活が始まった。でも、ヨシコは両親の面倒をみるために、どうしても日本に帰らなくてはいけなくなった。そんなわけで、僕はヨシコと一緒に日本へ来たんだよね。

それで、日本に来て最初に働き始めたのがベアード・ブルーイング。今は修善寺に工場が移ったけど、僕がいたのは修善寺に移る前。沼津フィッシュマーケットタップルームに隣接した醸造所で働き始めた。ブライアン以下、ベアード・ブルーイングの人たちは全員が素晴らしい人。楽しかったよ。でも、そこにいたのは数か月。知り合いに御殿場高原ビールの人がいて、僕がベアードで働いていたころ、御殿場高原のドイツ人の醸造スタッフがやめちゃって人を探しているってことだった。そこからだね。

―そのころから、自分のブルワリーを立ち上げようというプランがあった?

SB いや、全く。御殿場高原にいたのは5年間。5年間勤めたあと、実はシェラネヴァダから連絡があったんだよね。そのころ、シェラネヴァダはノースカロライナに新たにブルワリーを立ち上げることになった。シェラネヴァダもスタッフが必要になったんだね。そこでアメリカに戻れば、僕はシェラネヴァダの一員として、また働くことができる。すぐに返事をしなくてもOK。1年以内に戻ってきてくれれば、スタッフとして雇用する約束をしてくれた。かなり魅力的なオファーだよ。で、僕はヨシコと話しをしたんだね。そこで、自分のブルワリーを立ち上げることにした。醸造免許を取得するための事務仕事はすべてヨシコがやる。僕はビール作りに専念する。これで独立して、ヨシコの実家のある川崎でブリマー・ブルーイングを設立する。決定。こんな感じだね。あ、あとこれはどうしても言っておかなければいけないことだけれど、御殿場高原ビールの用意してくれた条件は信じられないくらいの厚遇だったんだよ。今でも感謝してる。

御殿場高原ビールで1人何役もこなしていた頃のスコットさん

 

1人5役! 御殿場高原時代の経験が今、生きている。

―御殿場高原ビールはジャーマンスタイルですよね? シェラネヴァダとはビ-ルの作り方もずいぶんと違ったんじゃないかと思います。ジャーマンスタイルのビール作りは御殿場高原時代に習得したんですか?

SB いや。僕がいたころから、シェラネヴァダはジャーマンスタイルのビールを作っていたからね。サマーフェストはピルスナーがベースになっているビールだし、他にも作っていたから、御殿場高原ビールで初めてジャーマンスタイルのビールを作ったわけではないよ。だけど、御殿場高原ビールでは、シェラネヴァダとはやることがかなり違っていたんだよね。

―どう、違っていたんですか?

ビールの作り方そのものではなく、仕事の種類とこなし方、だね。

シェラネヴァダではモルトをミルするところから、仕込み、発酵、温度管理…すべて役割が分担制になっていて、スタッフはいわばチームだった。いっぽう、御殿場高原時代はねえ、全部やらなくてはいけなかった。何しろ、あの規模で、当時、ブルワーは5人しかいなかったんだよ。モルトのミル、仕込み、発酵と温度管理、レストランでの接客、バーテンダーもこなさなくてはならなかった。そこが一番違うところだね。つまり、すべて、なんだけど。実は、この経験が今、役に立っていると思うよ。全体を見ることが得意になった。発酵タンクの状態を見ながら、次の仕込みのためのモルトミルにとりかかる、とか、無駄なく全体の生産計画をたてられるんだ。限られた生産設備の中で、効率よく次へ進める、ってところだね。

※インタビューはまだまだ続きます。明日更新の記事ではスコットさんのビール作りに関して踏み込みますよ! お楽しみに!

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